アウトプット志向思考が至高とか言う奴歯垢。
~TwitterもTumblrもおもしろすぎるよね,って話。
タイトルは言葉遊びにすらなってない遊び。
サブタイトルがタイトル。
テーマは,入力と出力について。
自戒をこめて。
思うに,Twitterは思考の捌け口として余りにマイクロすぎる。
思ったことをとりあえず投稿できるということは,アウトプット欲を満たす上では最高である。
あるいは,
・フォロワーが身内ばかり
→自己顕示できる
→構ってちゃんできる
→とりあえず存在誇示できる
・フォロワーが知らない人だらけ
→情報が入ってくる
→情報を発信出来る
→→自己承認
→→好奇心・知識欲
→→"他人より速く知ってる俺すごい"
・フォロワーが一大クラスタ
→その小さな世界を大きな世界と解釈して楽しむのは容易
いずれの場合も,それなりにアウトプットすることが,他人に承認されたり,意味のある行為になったりする。
だけど,だ。
そのあまりにマイクロなアウトプット単位は,刹那的である。
投稿して満足していないだろうか。
ついでに。
Tumblrが面白くてしょうがない。
エライ人が言っていた気がするのだが,ある種,雑誌を読む感じ。
※引用読むのとReblogだけ。ブログ的使い方はしていません
自分が介在することなく(まぁフォローはするけども。)次々と情報が現れる。しかも誰かが編集したものだから,エッセンスが詰まっている。誰かという人間フィルターを通った情報を,シャワーのように浴びる気持よさは,多分Tumblrを利用してみないと分からないだろう。
※ある種の紳士たちのようなエロタンブラー的使い方ではない。それもいいかもと最近思ったこともゲフンゲフン
しかもだ。アウトプットも簡単。
[Reblog]<ポチッ
あるいは
[t]<カタッ
情報シャワーと簡単アウトプット。快感やばい。
しかもReblogした記事がTwitterで自動postされて,それがRTされてウケたりね。
ところで。
アウトプットは処理のチャンスだと思う。
[入力]→[写像]→[出力]
アウトプットするのは写像たる自分である。アウトプットという機会は,写像として入力を処理する(=思考する)チャンスだと思うのだ。
アウトプットすることは基本的に快感であるはずだ。そしてその一つの方法が他人にしゃべることである。ここに,Twitterが(またはTumblrが)現れる。するとどうだろう。簡単にアウトプットできてしまう。
快感だ。
140字以内という制限は,アウトプットに求められるレベルについて,言い訳を提供している。思ったことをつぶやけばいい。「今何してる?」という質問に対して,「この問題についてどう思う?」「今あなたは何を考えて生きている?」のような質問の答えは必要でない。
(あるいは,気に入った記事をReblogするだけだ。"好き面白い楽しい"しかアウトプットしていない。)
でも,そのアウトプットは容易であり快感である。大げさな処理は必要ない,つまり考えなくていい。
そして,その簡単さに陥落し,処理のチャンスを失っていく。
TwitterもTumblrも,人類史上ありえなかった量の情報を簡単に与えてくれる。知る事は快感だし,悪くない。
そしていずれも安易なアウトプットがメインで,かつそれで十分満足できてしまう。それはあまりに快感で,あまりに刹那的に完結する。
果たしてそこに自分の考えはあるのだろうか。
咀嚼しているだろうか。熟考しているだろうか。
「気分」でアウトプットするだけで,満足していないだろうか。
時間を費やして得ている情報は,果たして自らの糧となるように咀嚼しているだろうか。
「入力されること」に満足しているだけで,
自分の中に溜めて,自らの思考で咀嚼し熟考し熟成し処理しているだろうか。
「出力すること」に満足しているだけで,
その時々の気分で適当に,いやテキトーに行っていないだろうか。
と,そんなことを思いましたとさ。
余談だけど,ネット巡回も同じような中毒性なり一時的快感的なものがあると思うし,アルファブロガー(笑)な人のブログ読むのとか,ライフハック記事読むのとかも同じようなものですよね。
そんなわけで,僕はもう少し咀嚼したり,熟成したり,自分で考えた上でアウトプットすることを試したいと思う。TwitterやTumblrをやめる気はまぁないのだけど,Blogだったり友人との会話だったり,より考えることが必要になるアウトプットに力を込めてみたい。
TwitterとTumblrで満足している現状に自戒をこめて。
アウトプットを,試行したい。
こんな長文を一気に書けた・・・。
ここ半年以上,ずっと考えてた話題だからかなー。
あと,言葉遊び恥ずかしいな・・・
起承転結になっててすげぇ。
サブタイトルがタイトル。
テーマは,入力と出力について。
自戒をこめて。
思うに,Twitterは思考の捌け口として余りにマイクロすぎる。
思ったことをとりあえず投稿できるということは,アウトプット欲を満たす上では最高である。
あるいは,
・フォロワーが身内ばかり
→自己顕示できる
→構ってちゃんできる
→とりあえず存在誇示できる
・フォロワーが知らない人だらけ
→情報が入ってくる
→情報を発信出来る
→→自己承認
→→好奇心・知識欲
→→"他人より速く知ってる俺すごい"
・フォロワーが一大クラスタ
→その小さな世界を大きな世界と解釈して楽しむのは容易
いずれの場合も,それなりにアウトプットすることが,他人に承認されたり,意味のある行為になったりする。
だけど,だ。
そのあまりにマイクロなアウトプット単位は,刹那的である。
投稿して満足していないだろうか。
ついでに。
Tumblrが面白くてしょうがない。
エライ人が言っていた気がするのだが,ある種,雑誌を読む感じ。
※引用読むのとReblogだけ。ブログ的使い方はしていません
自分が介在することなく(まぁフォローはするけども。)次々と情報が現れる。しかも誰かが編集したものだから,エッセンスが詰まっている。誰かという人間フィルターを通った情報を,シャワーのように浴びる気持よさは,多分Tumblrを利用してみないと分からないだろう。
※ある種の紳士たちのようなエロタンブラー的使い方ではない。それもいいかもと最近思ったこともゲフンゲフン
しかもだ。アウトプットも簡単。
[Reblog]<ポチッ
あるいは
[t]<カタッ
情報シャワーと簡単アウトプット。快感やばい。
しかもReblogした記事がTwitterで自動postされて,それがRTされてウケたりね。
ところで。
アウトプットは処理のチャンスだと思う。
[入力]→[写像]→[出力]
アウトプットするのは写像たる自分である。アウトプットという機会は,写像として入力を処理する(=思考する)チャンスだと思うのだ。
アウトプットすることは基本的に快感であるはずだ。そしてその一つの方法が他人にしゃべることである。ここに,Twitterが(またはTumblrが)現れる。するとどうだろう。簡単にアウトプットできてしまう。
快感だ。
140字以内という制限は,アウトプットに求められるレベルについて,言い訳を提供している。思ったことをつぶやけばいい。「今何してる?」という質問に対して,「この問題についてどう思う?」「今あなたは何を考えて生きている?」のような質問の答えは必要でない。
(あるいは,気に入った記事をReblogするだけだ。"好き面白い楽しい"しかアウトプットしていない。)
でも,そのアウトプットは容易であり快感である。大げさな処理は必要ない,つまり考えなくていい。
そして,その簡単さに陥落し,処理のチャンスを失っていく。
TwitterもTumblrも,人類史上ありえなかった量の情報を簡単に与えてくれる。知る事は快感だし,悪くない。
そしていずれも安易なアウトプットがメインで,かつそれで十分満足できてしまう。それはあまりに快感で,あまりに刹那的に完結する。
果たしてそこに自分の考えはあるのだろうか。
咀嚼しているだろうか。熟考しているだろうか。
「気分」でアウトプットするだけで,満足していないだろうか。
時間を費やして得ている情報は,果たして自らの糧となるように咀嚼しているだろうか。
「入力されること」に満足しているだけで,
自分の中に溜めて,自らの思考で咀嚼し熟考し熟成し処理しているだろうか。
「出力すること」に満足しているだけで,
その時々の気分で適当に,いやテキトーに行っていないだろうか。
と,そんなことを思いましたとさ。
余談だけど,ネット巡回も同じような中毒性なり一時的快感的なものがあると思うし,アルファブロガー(笑)な人のブログ読むのとか,ライフハック記事読むのとかも同じようなものですよね。
そんなわけで,僕はもう少し咀嚼したり,熟成したり,自分で考えた上でアウトプットすることを試したいと思う。TwitterやTumblrをやめる気はまぁないのだけど,Blogだったり友人との会話だったり,より考えることが必要になるアウトプットに力を込めてみたい。
TwitterとTumblrで満足している現状に自戒をこめて。
アウトプットを,試行したい。
こんな長文を一気に書けた・・・。
ここ半年以上,ずっと考えてた話題だからかなー。
あと,言葉遊び恥ずかしいな・・・
起承転結になっててすげぇ。
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